茶の湯の五感 内観 まとめ





茶の湯の五感 御礼


 皆様、ご機嫌宜しゅうございます。

 先日は、茶の湯の五感 内観にお越し頂き、ありがとうございました。

 3年ぶりの開催や、場所を新たにしたことも踏まえ、いろいろの足らぬことあったかと思います。ご不便をおかけしたと思いますが、皆様にお心遣い頂き、無事一週間の会期を終えることができました。

 心より御礼申し上げます。



 今回、全席70名という、一般開放された大規模な茶事をするにあたって、非常に気にかけた部分は、やはり、所作や作法、茶に関する様々な知識といった、通常の生活では知り得ぬ、茶の湯の暗黙知にありました。

 茶の湯におけるそれらの暗黙知とは、長時間、人々を一定の型に体勢を拘束する小部屋に閉じ込めながら、如何にして主客が効率的に折り合うことができるか、という点において展開されたものです。それは言ってしまえば、茶の湯を学んだ者にだけ等しく付与される共通認識、つまりは記号のようなものです。そのような記号の意味を知っているからこそ、茶事はスムーズに進行し、さらには通奏低音として流れるテーマをより深く知り得ることができるのです。


 そのため記号の意味を知らぬ者、つまりは未経験者は茶事に招かれないことが世の常となっています。


 しかしながら、400年前の利休の時代を踏まえますと、もちろん流派や流儀などありませんから、一部の人々を除き、皆が未経験者でありました。

 商人や公家、僧侶だけではなく、武功や、政治・経済・文化など、新時代の様々な教養を求められた当時の武将たちが、未経験ながら熱中した茶の湯とは一体なんだったのだろうかと考えると、現代においてもその魅力を体感することに関して言えば、先ほど挙げた記号性によって入口が狭められてしまうことは、正しいことでないのではないか。むしろ、未経験者の眼にこそ、より魅力的で新鮮なものとして茶の湯の存在が映らなくては、我々経験者のお役目も果たされないのではないか、と思い、この度の会を開く運びとなりました。

 ただし、現代の茶事の構成において、先述の記号認識の隔たりは依然として揺るぎなき関門となって立ち憚りますため、結果的には、客人が観客という存在に成り代わりますが、劇場型が最適か、という結論と相成りました。




 さて、今回のテーマ「内観」を感じていただくために「異」という方法をご用意しました。

 今回の茶会は、様々な点で賛否両論あるかと思いますが、もし言語化が可能でしたら、下記の無記名アンケートにご意見ご感想頂けますと、次回の会の参考にさせて頂きます。

https://forms.gle/vzcS1JHtXBa8ZvYf9

 人によって、様々な「異」の認識があり、非常に興味深く拝見しております。茶会とは、亭主のプライベートなものが下地となりますから、私のおける「異」があのようなものでした。もし「異」でなかった客人がおられましたら、一体なにが「異」なのか、お教え頂けたら幸いです。



 また、皆様も今回のアンケートの結果が気になるかと思いますので、インスタライブや、noteなどでまとめまして、発表することを考えています(勿論、個人が特定されるような発表はしません)。

 通常、茶会や茶事というのは、開催した時点で「御祝い」「御礼」となりますから、批判やご意見は受け付けません。また、プライベートの数寄な物を組み合わせて成立するものが茶会ですから、そのような声が届いたときに亭主が傷つくのを避けるまでもあります。

 しかしながら、今後の茶の湯の世界を踏まえますと、茶の湯のだけ、いつまでも安全安寧な聖域を維持し続けるのは困難であると思っています。そのためには、経験に依らず、広くお言葉頂戴しない限りは、発展も工夫も見えない故、どのようなお言葉も受け止める所存です。叱咤激励に置き換えて、今後の参考にさせて頂きます。

 

  将来的には、映画を一本見に行くような気分で茶会に参加できる世の中となることを願っております。「こんな感じなら、私にもできるよ」と初めての方に思ってもらえたら、なによりの幸甚にございます。


 

 改めて、この度はご参会頂き、誠にありがとうございました。

 またお会いできますことを、楽しみにしております。



 令和四年五月吉日  武井 宗道