夏の風情

 まだまだ梅雨が明けず、東京の空は灰色がかった曇天に覆われております。

かつて旧暦は現在と一ヶ月ほど暦がずれておりましたので、梅雨とはまさに五月を指しておりました。よく五月空などと言ったりしますが、それは新暦の気持ちの良い春の気候ではなく、実はどんよりとした空の模様のこと。月の出ぬ闇夜などは「五月闇」と表現もします。

夕暮れ時まで雲に覆われた地平線は、なんとも空と地上に分かちがたく、境目を失ったその景色は、まさに茶の湯にとっての「堺をまぎらかす」境地にも思えます。

 

 梅雨が明けまして、いよいよ夏の風情となった頃、透き通った青空に「雲の峰」とも言うべき、積乱雲が発生いたします。地方によってはこの積乱雲に固有の名称があり、武蔵地方の坂東太郎、大阪地方の丹波太郎、九州の比古太郎、その他、信濃太郎、岩見太郎、安達太郎など、まさに擬人化。昔の生活は、気候の変動によって田畑や海が荒れたり、災害などが起こったり、命に直結しますので、特定の言葉の偏りを見れば、その地方がどのような天気を重視していたかが分かります。大変興味深いものです。

 

 「夏の月」という涼やかな宵を連想させる言葉が出てくるとますます夏は盛り。月光に照らされ、地面が白々と霜を置いたように見えることを「夏の霜」と言ったりもしました。実は「天の川」などは秋の季語であったりしますが、夏の涼気を月や星に例えるのもまた一興です。

 

 夏の星 汐騒の村 寝落つなり  桜井菜緒

 

 

 夏口切りの際、かの古田織部が茶に対する畏敬の念から、帷子を着ずに、小袖で参加したことは『織部伝書』に書かれている通り。帷子(かたびら)とは、麻または苧麻(からむし)で織った布で仕立てた単衣の事。肌に密着しないのでさわやかで涼しく、盛夏にふさわしいとされています。また、羅(うすもの)とは、絽・紗などの薄絹で作った単衣。古くは「蝉の羽衣」と言って、セミの羽のように薄くて軽い着物のことを指したそうです。七月の終わりころから開催が続く花火大会では、浴衣の方々も。夏の装いもまた人の目を涼しくさせます。

 

 その衣の絹も、蚕がいてこそ楽しめるもの。桑の葉が出る五月から十月が、まさに繭を作る頃。上蔟(じょうぞく)といって、繭づくりをするための蔟(まぶし、容器)に蚕を移します。くるくると身をよじって造られた楕円形の繭は、蚕買にそのまま売られ、日に干すことで中の蛹を殺し、それから使用されます。ちなみに、二匹の蚕が共同して作った繭の事を「ふたごもり」と言ったりします。糸取り機にかけて糸車を作る風景などは、「夏引の糸」とも言い、古いドラマなどで目にすることも。

 

 梅の木に膨らんだ実は、今日この頃にはすっかり落ちてしまっていますね。青梅に砂糖を加えて煮ると、酸味とほろ苦い甘さの煮梅ができます。魚は身欠き鰊、干河豚、晒鯨、生節、水貝、土用鰻に蜆、身体を冷やす葛を使った料理もまた、葛素麺、葛餅、葛饅頭、葛練、葛水と多数。夏は食欲がなくなると言われますが、個人的にはまったくそんなことはなさそうです。ただし冷やし過ぎには、注意。おなかを温める「腹当て」も夏の言葉。

 

 

 禅語に「無暑寒」という言葉があります。これは、暑い時は暑いし、寒い時は寒い、だからいつまでも比較をしていないで、「それ」と一体化してしまえば、暑いも、寒いも何もなくなるよ、という意味です。これから、大変厳しい暑さが続く頃となりますが、どうぞ皆さまご自愛ください。

 

 

 

武井宗道