定家

 時折、つかれてしまうことがある。

罵詈雑言、喧々諤々、カミナリ言葉に、不条理暴論。

騒々しい頭の中の会議場。

あるとき誰かに照明のスイッチを切られて、静謐な闇だけが滑らかに波打つ。

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。(引用元『ドグラマグラ』)

 

 

茶の湯はとても単純である。

自然界に在るものを身体に取り入れ、体内で昇華し、客人へと届ける、ただそれだけ。

その「引継ぎ行為」を形式化したものが茶の湯であって、他の文化における芸能や工芸のように、何か複雑怪奇な事象を生み出したりする必要はないのである。

任運無作といって、自然の流れに身を任せておけばよい訳であるが、自身の眼玉にその自然を映すことがまず大変だ。

現代の生活の中で必要な要素を取捨選択しているようで、実は取るものだけ取って、捨てるものを判別できなくなってしまった自分がいる。

そんな自分の感覚を用いて自然を形作らねばならない大変さ、ここにつかれてしまうのかもしれない。

すぐにマインスイーパーの世界に飛び込みたくなってしまう。

 

 

 道を歩けば都会であっても草木が生え、花が咲いていて、梅雨空が続けば皮膚がその湿度を感じ、気圧の変動があれば頭の欠陥を収縮させ(痛い)、下を見れば子供の手足がすらすらと日を追うごとに伸びている。

咀嚼が追い付けぬほどのスピードで、身の回りのものはやたら変化し続けている。

ふと思ってスマートホンのアルバムを開いてみれば、現状と変わっているところが多々ある。私は気づかぬまま、ここまで来てしまったわけで―まったく後悔はしていないが―、自然を見つめることが如何に難しいかをその都度感ずる。

牧野富太郎氏の『植物知識』の冒頭に、「花は率直に言えば生殖器である」とあって、清々しくて、わははと思うが、自身の繁殖期さえ忘れてしまった人間には、花を見るなんて、なんと皮肉で哀しき行為か。

 

 

「けがさじとおもふ御法のともすれば. 世わたるはしと成るぞかなしき」

利休が常に歌っていた狂歌だそうだが、教授料で身を立てていない我が身を想えば、さらに骨の髄に染みていく。

先日、とある人々とラジオ収録していて出てきた話の中に、「業」というものがあったが、見えないものを形式化して売る茶の湯など、まさに「業」である。

四百年経った現代の世はさらに見えないものばかり。

貨幣も通信もコンサルタントも何もかも。

しかしながら、見えているものこそ見えない方が残念だ。

どこに至っても、その揺らぎが見えるように。

 

 

「見えないものを見えるようにする、見えるものを見えないようにする」

茶の湯を行う中で、繰り返し自問自答し続けるテーマだ。

その問いに答えを出し続けるというか、禅語的に言えば、問いも答えも、それ自体に身を置かねばならぬところだが、まったく修行が足りない。

身の回りの変化につかれてしまうなど、まだまだである。

ただ、それを見ないようにしてしまう恐怖の方がまだ大きい。

 

 

 

 そんな頃、ご案内を頂き、宝生能楽堂にて味方玄先生の定家を拝観した。

最後の式子内親王の舞を見ながら、幾度となく夢と舞台を往来。

実は舞台とはまったく関係のない夢を十回ほど見ていて、戻るたびに美しく舞っておられるので、いつまでも続くのだろうかと思ったほどだ。

私の感覚では二十分ほど経っていたかと思っていたが、あとから同席した知人に聞いたら五分ほどであったとのことで吃驚。

久しぶりに、意識することなく、感覚のみで美しいものを楽しむことができた。

 

 

 

 

 しかしながら、知っていなければわからない感覚というものもある。

そのために、遺物や書物などがあって、我々に見えないものを気づかせる要素や方法を教えてくれるのだ。

どんな時代になっても、先人の智慧は息づいていて、その呼吸に耳を傾けると、景色が拡がる。

そこに至るまでの過程を皆様とご一緒で来たらなお幸いである。

 

 

 

 

今週は、17日に「茶と花」、21日に「茶と本 茶話指月集」の講座。

資料作りに、見えないものが見えるように、今日も専念する。