流派について

流派とは、千利休などから発する茶の湯文化を、各々の流祖の数寄・好みによって形式化させた組織。
江戸中期頃より、家元を中心とした制度が生まれ、一定の修行を終えた弟子に、段階的に免状を発行する形態となる。
江戸時代においては幕府や各大名につく「茶堂(茶道指南役)」という立場によって、それぞれの茶家は活躍した。
明治維新によって没落した各宗家は、新興財閥を後ろ盾とした「貴神の茶」と、女学校への「教育」という2つの展開を持って、再興する。
第二次世界大戦後は、一般への普及に努め、現在のような大団体となっていった。

基本的には、家元・流派は、それまで培われた「文化継承」、また時代に合わせた「創意工夫」という役割を持つ。

(参考文献:『お点前の研究:茶の湯44流派の比較と分析』著 廣田吉崇)


流派の構造について

流派の構造を一口に語ることはできない。
一般的には、宗家を頂点とするピラミッドが形成され、発せられる教えを基に流派が運営されていると思われがちだが、実際は違う。

●宗家と流派は別組織
宗家とは、家元のみを指す場合もあるし、家元と近親者によって形成される家族的集団を指す場合もある。
家元の活動を補佐するための内弟子や事務局があり、宗家の茶会や茶事、献茶、免状式、教授者育成講座などの活動をしている。
一方、流派は、会員による任意団体で、活動においては宗家の許可が必要である場合もあるが、ほぼ任せられている。
図にすると以下の通り。
要するに、表向きには宗家が流派を作り運営する一つの集団組織となっているが、実際には宗家の持つ茶の湯の「権威(免状)」「方法(点前や茶会の形式など)」「要素(茶道具など)」を借りる形で、会員たちが任意で団体を運営する構造となっている。
宗家は、最終決定権を持つが、実務ではほぼ関わらない。
また、宗家は生来の権威を持つが、会員にはないため、流派が巨大化するにつれ、会員の差別化を図るためにために段階的、かつ細分化された免状によるヒエラルキーが構築された。
さらに、現代に至っては、各地方に置かれる支部による組織運営となっており、免状の「格」とは特に関係がなくなった。
どちらかというと、流派や支部の箔付のために、茶道を一切知らない政治家や経営者が支部運営の長や幹部に付くこともある。
つまりは茶道の熟練度と、流派運営も別個であると考えた方が良い。


・支部
流派は、各地方に支部が置かれ、支部長をトップとしてその地域の年間の方針やスケジュールなどが示される。
支部の活動は、茶会や、宗家を招いての研究会、などである。

・青年部
流派によって年齢制限は異なるが、現在は流派会員の高齢化によって40代以下まで青年部とされることも多い。
支部の活動とはまた別に、青年部は年間を通して独自に研究会や茶会などの活動をする。

・一般会員
教授者免状をまだ未取得の初級会員。茶会や研究会への参加は、その教室の教授者の判断に委ねられることが大きい。

免状について

●免状とは
免状は、かつては師の教えを完全に伝承された弟子のみに与えられたものであったが(完全皆伝制)、現代では、弟子の達成度によって段階的発行となっており(不完全皆伝制)、初級〜上級まで様々な「格」がある。
免状などの「格」によってヒエラルキーが流派内で形成されている。
流派によっては一定以上の年齢にならなければ、発行されない免状もある。
家元は、門下の弟子に免状を発行する唯一の権利を持つ。
もちろんのことだが、最上位の免状を取ったところで、家元にはなれない。


●免状
免状を得た弟子は「教授者」となり、会(教室)を開き、弟子を持つことが許される。
直門以外の稽古場では、各教授者の推挙によって、その弟子に免状が発行される。
教授者は、自身に発行された一つ下の免状まで、弟子に取らせることができる。
そのため、弟子に次の免状を取得するためには、教授者は常に高位の免状を取得していかねばならない。要するに、教授者である限り、より高位の免状を取得せねばならず、それを推挙するのは教授者の師であるから、元々いた教室からも抜けることはできないシステムとなっている。
しかしながら、免状発行料や関連する行事への参加費が高額であることと、すべての弟子が教授者になるわけでは無いため、「教授者免状」は、ほとんどの会員にとっては社会的ステイタス、もしくは形骸的な代物となっている。



まとめ

●茶の湯の修め方
茶の湯を修める者は、決して教授者になることを目指してはいけない。あくまでも、自身の茶の湯・数寄表現が見えた後に、弟子から指導の願いを受けて、教授者となるべきである。
昨今、教授者でありながら、自身の数寄表現をする人が少ない。どちらかというと、流派の教えに守られた、もしくは流派の教えを破った茶会しか見ない。それらの方法論はこれまでいくらでも試されてきたので、そこで満足してはいけない。
数寄表現とは、珍妙な茶器を使ったり、珍奇な食材を呈することではない。その人にとって、
その頼りない表皮に包まれた臓腑や心の内を、覚悟をもって、客人のために露出することである。そこには楽しいだけでなく、痛みや苦しみも伴われるだろうが、それを感じさせない方法が美味なる一服の茶の湯である。
「教えることのプロ」は、茶の湯の世界においては大いなる恥でしかない。常に表現においても卓越した者であることを意識しなければならない。


けがさじとおもふ御法(みのり)のともすれば 世渡るはしとなるぞかなしき