利休によって完成をみた茶の湯は、その後継者たちによって定義化されていきます。
 つまりは「道なきところに道を作る」個々人の創意工夫を重んずるのではなく、それぞれの流祖の創意工夫を体系的に固定化させることで、「立派な人格を形成するための道」が舗装されるようになったのです。
 道なき道を自ら切り開く「茶の湯」、道あるところを正しく歩む「茶道」。似たような名称ですが、実は大きな違いがあるのです。
 そして、江戸時代中期以降は、時代が平和を求めたこともあり、茶道の力が増し、現在の宗家・流派が生まれていくこととなりました。茶堂(茶道指南役)を抱える藩もあり、侍の習いとして定着しました。
 しかし、明治維新によって、事態は一変します。
流派図
流派図

茶道の没落


 幕府寄りであった茶道流派は明治維新によって目の敵とされ、没落します。位の高い武士に教えていた師匠たちが、日稼ぎの芸人として見なされるほどにまで地の底に落ちたのです。当時の「茶之湯指南者」は、京都府から「遊芸師匠・遊芸稼人」としての営業税を課されています。
 茶道史における最も暗黒な時代が、明治初期でした。

茶道再興の2つの要因


 しかし、西南戦争の明治10年頃から、ようやく当時の新興財閥の近代数寄者たちが茶道を好むようになります。
 実は明治になって抹茶を使用する茶道の代わりに、政府に気に入られた文化は煎茶でした。煎茶道の宗匠たちは時代の潮流に大いに乗り、隆盛を極めますが、茶道が再興したこともあり、明治で煎茶道は低迷していきます。

 茶道が窮地から救われた要因は2つあります。

  1. 貴紳の茶の湯
  2. 女子教育


1、貴紳の茶の湯
 「貴紳の茶の湯」とは、近代数寄者たちが嗜む瀟洒な茶道のことを指します。新たに時の寵児となった人々は、お金と地位を得た後は、古くから伝わる確立された価値を求めるようになります。要するに、歴史の一員となりたいと欲すわけです。闘茶に明け暮れたバサラ大名や、連歌に熱中した堺の商人、そして信長や秀吉も同じです。新たな形式は生み出しましたが、要素は古来から伝わるものでした。
 明治の人々も同様で、西洋文化にかぶれながらも、一方で日本を省みるために、茶道を選択しました。


2、女子教育
 また、宗匠たちは一般の人々、特に女子教育に茶道の礼作法や精神を取り込むことに成功します。学校教育の中の花嫁修行としての性格もありながら、同時に女性の茶人や教授者が増加しました。
 大正後期頃には、男性よりも女性の会員の割合が大きくなったと言います。ここに、近代茶道を支える女性たちの力が集結していきました。

戦争と茶道


 戦時中、茶道文化は国家の下、戦争に賛同した茶会や奉仕を行いました。また、そのために歴史の事実を大いにねじ曲げた精神、抹茶による昂揚を喧伝しましました。亭主と客人の平和的な交わりを最も重んずる茶の精神において、決して許されない行為でした。
 「戦争と茶道」については、また別の章で詳しくお話ししたいと思います。


戦後と現代茶道


 戦時中の大いなる反省を出発点とし、茶道の各流派は再び活動を開始しました。
 これまでと最も異なる点は、宗家自ら会員増加を目標とし、巨大な団体へと成長したことです。

 戦前までの流派は、あくまでも後援者たちや女子生徒たちへの茶道指南を主とする小規模団体でしたが、戦後に至っては、巨大化する流派経営が主な生業となりました。
 茶人の宗匠ではなく、教授者の宗匠となり、創意工夫とはまた別の次元で茶道が展開されていきます。また、すべてを伝えきったという皆伝の免状ではなく、段階的な教授許可証を大量に発行することで教授者、会員の爆発的な増加に至ります。
 茶道人口は、最盛期には500万人以上であったと言われ、各宗家は後援者よりも大きな力を持つこととなりました。

 しかし、現代に至っては、毎年10万人規模で茶道人口が減少しており、会員の高齢化も相まって、流派経営は再び困難な時期を迎えています。
 いまだ効果的な打開策は、どの流派からも出てきておりませんが、SNSなどの広がりによって流派内外における個々人の茶人が増加するなど、社会的には新たな兆候が生まれています。

 きっと、近い未来に世界中が魅了される創意工夫が生まれることでしょう。
 その時、当事者となれるよう、とにかく研鑽に努めることが肝要に思います。