平安時代後期に学問僧であった永忠が日本へ茶を持って帰り、それを嵯峨天皇に献じたことが、日本の公的史料の初出です。もしかすると、当時は遣唐使など交信がありますので、それ以前に飲んでいた人もいたと思われますが、表舞台に登場したのはこれが初めてです。
 茶を日本に伝えた説は、他にも同時代の「空海や最澄が日本へ将来した」など、諸説あります。
 この時、茶を気に入った嵯峨天皇は、畿内など諸国に茶園造営を命じます。ですので、抹茶の方法を日本へ伝えたと言われる「茶祖栄西」よりも以前に、日本には天皇認識のもと、茶もあり、茶園もありました。
嵯峨天皇
嵯峨天皇

流行する喫茶、停止する展開


 栽培が始まったことで、貴族や僧侶の世界で茶は広まっていきました。
 かの菅原道真も、左遷された太宰府で飲んでいたり、博多の鴻臚館では接待の際に用いられたと言います。また、同じく博多の「津唐坊」の遺跡からは大量の天目茶碗が出土しています。
 しかし、茶の展開もそこまでで、大きな変化は栄西を待つこととなります。一説には、遣唐使を廃止し、藤原氏をトップとする国風文化への思想の移り変わりとともに、中国の飲み物から関心が薄れていったのではないかと言われています。ただ、仏教行事には茶を供えたり献じるものがそのまま残ったため、寺院の中では依然、広がっていったとも考えられています。
津唐坊遺跡 天目茶碗や茶入など(引用:文化遺産オンライン)
津唐坊遺跡 天目茶碗や茶入など(引用:文化遺産オンライン)

栄西と抹茶


 鎌倉時代に至り、2度目の入宋で臨済禅と「抹茶の法」を持ち帰る栄西が登場します。
 栄西が禅と茶を伝えたことで、抹茶=禅というイメージがありますが、栄西は死ぬまで臨済禅をほぼすることなく、もといた天台宗的密教僧として活躍します。ですので、今日本にある禅と抹茶の繋がりはこの頃にはありません。栄西は平安時代以来、公的な文書に茶を登場させる人物です。そのエピソードは、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に載っています。
 ある時、三代鎌倉将軍の源実朝が二日酔いで苦しんでいました。栄西は中国から持ち帰った最新式の加持祈祷を望まれますが、それより最新の飲み物を飲めば治ると言って献じたのが、抹茶でした。実朝の二日酔いはたちまち治り、この時、かの有名な『喫茶養生記』も献じたと記されています。こうして、歴史の表舞台に再び茶が登場しました。
栄西
栄西

 さて、個人で楽しまれていた茶は、生産数、生産地の増加によって、複数で楽しまれるようになります。
 「茶の寄合」の誕生です。