これまでは、茶の効能や精神、またそれに連なる遊芸としての発展を見てきました。
しかし、基本的には、中国から伝えられた植物を、伝えられた方法で摂取しており、日本独自の展開を見せたわけではありません。
室町時代に至って、ようやく「喫茶の精神」に、古来から伝わる和文化の境地が備わり、新たな要素と形式「茶の湯」が生まれました。
室町時代中期に村田珠光という茶人が登場します。彼は東大寺の検校を父に持ち、幼い頃預けられた称名寺から二十歳前後で出て、その後、一休宗純と出会ったことで、茶に禅の境地をもたらした人物として知られています。茶の世界では、「佗び茶の祖」として珠光は讃えられています。
しかしながら、実は珠光の確定的な史料は見つかっておらず、名は有名ですが、その生涯は謎に包まれています。
ただ、なぜその名が力を持つかと言いますと、彼が弟子に送った『心の文』が佗び茶の精神を表す、名文であったからです。
村田珠光の『心の文』に登場する「冷え枯れる境地」とは何でしょうか。
これは、堺の文化サロンにて最も流行した遊び「連歌」の境地のことです。茶の湯は和歌の世界から、影響を受けることで、大きな発展を遂げました。より詳しく知りたい方は、「冷え枯れるについて」を参照ください。
連歌とは、複数人が集まる座で、歌い出しの発句を皮切りに、上の句、下の句と、一人ずつ連ねて詠み合わせていく文芸のことです。当時、武士たちが闘茶に熱中する一方で、堺の豪商たちは公家の和歌文化をベースとしたこの文芸にのめり込んでいました。他者の歌と読み合わせるためには、多くの人生経験や知識が必要がなければできません。そのため、巧者は商人たちの間で畏敬の念で見られ、その地位を確立することができました。
その連歌にのめり込んだ豪商の一人が、武野紹鴎でした。彼は三十代までは連歌師として生きていましたが、もともとは皮ものを扱う商人でした。後に、珠光の遺志を継ぐ宗珠や、藤田宗理から佗び茶を学び、和歌の世界を茶の湯に持ち込んだと言われています。
和歌はもちろん日本で生まれた独自の文芸です。中国から伝えられた茶の文化に日本の要素を組み込ませることで、珠光の目指した「和漢の境をまぎらかす」ことを達成させたわけです。
それは紹鴎が亡くなるほんの数週間前、それまでの禅語の墨跡などが掛けられていた床の間に、初めて藤原定家『小倉色紙』の「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出し月かも」という阿倍仲麻呂の和歌を掛けたことが、大きな変革であったと言われております。
茶と和歌の融合によって、茶の精神は、新たな日本文化としての発展を見ました。
こうして生まれた利休の茶の湯精神は、息子や弟子たちに引き継がれます。
江戸時代が始まると、乱世の精神性はなくなり、平和な茶の湯が求めらるようになります。だんだんと創意工夫よりも、定義化される傾向が強まり、江戸中期頃から「茶家」が生まれ、宗家、流派といった「茶の団体」が登場します。
そう、茶道と流派という展開です。
4、茶道