これまでは、茶の効能や精神、またそれに連なる遊芸としての発展を見てきました。
 しかし、基本的には、中国から伝えられた植物を、伝えられた方法で摂取しており、日本独自の展開を見せたわけではありません。
 室町時代に至って、ようやく「喫茶の精神」に、古来から伝わる和文化の境地が備わり、新たな要素と形式「茶の湯」が生まれました。

禅と茶


 室町時代中期に村田珠光という茶人が登場します。彼は東大寺の検校を父に持ち、幼い頃預けられた称名寺から二十歳前後で出て、その後、一休宗純と出会ったことで、茶に禅の境地をもたらした人物として知られています。茶の世界では、「佗び茶の祖」として珠光は讃えられています。
 しかしながら、実は珠光の確定的な史料は見つかっておらず、名は有名ですが、その生涯は謎に包まれています。
 ただ、なぜその名が力を持つかと言いますと、彼が弟子に送った『心の文』が佗び茶の精神を表す、名文であったからです。

珠光好みの茶碗
珠光好みの茶碗

心の文

茶の湯の道で、もっとも悪いことは、我なりと慢ずる心と、我情である。それがあると、茶の湯の巧者を妬み、初心者を見下すようになる。これはとくによくないことだ。巧者に接して、自分の未熟なことを悟って一言なりとも嘆き、また初心者を育てるべきである。
茶の湯の道でいちばん大事なのは、和漢の境を融和させることである。これは重要なことで常に心を用いなければいけない。
また、この頃冷え枯れる境地だといって、初心者が和物の備前焼や信楽焼などを使って、誰も認めないのに最高位の境地にいたった気でいるのは言語道断である。「枯れる」ということは、良い道具を持ち、そのよさを味わって、深い心の下地ができたあとの「冷えやせ」た境地こそが興が深いのだ。
またそうはいっても、よい道具を持とうにもそれの叶わない人は、道具にかかわってはならない。手取釜のような粗末な道具しか持てない者は、それを嘆く気持ちが肝要である。ただ我慢我情の気持ちがよくないのである。とはいえ、同時に自分の持つ茶道具に満足する気持ちもなくてはやっていけない道である。
心べき名言として「自分の心を導く師となれ、心を自分の師とするな」と昔の人も言われている。
(引用『茶の湯の歴史』著神津朝夫)
 心の文によって高められた茶の湯の精神は、その後、武野紹鴎に引き継がれ、さらなる発展を見せます。

茶と連歌


 村田珠光の『心の文』に登場する「冷え枯れる境地」とは何でしょうか。
 これは、堺の文化サロンにて最も流行した遊び「連歌」の境地のことです。茶の湯は和歌の世界から、影響を受けることで、大きな発展を遂げました。より詳しく知りたい方は、「冷え枯れるについて」を参照ください。

 連歌とは、複数人が集まる座で、歌い出しの発句を皮切りに、上の句、下の句と、一人ずつ連ねて詠み合わせていく文芸のことです。当時、武士たちが闘茶に熱中する一方で、堺の豪商たちは公家の和歌文化をベースとしたこの文芸にのめり込んでいました。他者の歌と読み合わせるためには、多くの人生経験や知識が必要がなければできません。そのため、巧者は商人たちの間で畏敬の念で見られ、その地位を確立することができました。


 その連歌にのめり込んだ豪商の一人が、武野紹鴎でした。彼は三十代までは連歌師として生きていましたが、もともとは皮ものを扱う商人でした。後に、珠光の遺志を継ぐ宗珠や、藤田宗理から佗び茶を学び、和歌の世界を茶の湯に持ち込んだと言われています。

 和歌はもちろん日本で生まれた独自の文芸です。中国から伝えられた茶の文化に日本の要素を組み込ませることで、珠光の目指した「和漢の境をまぎらかす」ことを達成させたわけです。


 それは紹鴎が亡くなるほんの数週間前、それまでの禅語の墨跡などが掛けられていた床の間に、初めて藤原定家『小倉色紙』の「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出し月かも」という阿倍仲麻呂の和歌を掛けたことが、大きな変革であったと言われております。

 茶と和歌の融合によって、茶の精神は、新たな日本文化としての発展を見ました。

連歌会の様子
連歌会の様子

茶の湯完成


 そしてついに千利休の登場です。
 利休の思想や人生についてはまた別の章でお話しするとして、ここでは彼が完成させた茶の湯について記します。
 

 利休は、茶の湯を完成させます。どのように完成させたかと言いますと、これまでに既に登場した「抹茶」「茶道具」「茶室」などは、あくまでも「要素」です。利休が編み出したのは、それら要素を繋ぎあわせ、無形の芸能としての「新たな形式」としての「完成」でした。
 それまで、茶人たちは所持する要素(茶道具など)によって評価がつけられていましたが、利休が登場したことで、個々人の創意工夫に重点が置かれるようになります。反対に、ただ道具だけを持つ工夫のない茶人たちは、だんだんと姿を消していきました。

 楽茶碗や、竹の花入、茶杓、様々な茶室など、多くの新しい要素を日常の中で見出した利休は、その才を買われ、信長の命で秀吉の茶湯指南役となります。その後、秀吉が明智光秀を倒して天下一になると、同じく茶の宗匠として天下一となりました。有名な北野大茶湯が開かれるのもこの頃です。

 利休は、喫茶を通した亭主と客人のコミュニケーションの取り方に心血を注ぎます。無駄なものは一切削ぎ落とし、純粋な命と命の交わりを、茶の湯をきっかけとして展開しました。利休の茶の湯は、戦国乱世、命がけて生涯を駆け抜けた時の為政者や大名たちの心を打ち、あっという間に時代を包み込んでしまいました。
 やがて利休の存在を煙たがるようになった秀吉によって、切腹という最期を迎えることとなりますが、利休の茶の創意工夫は、色あせることなく、今もなお伝えられています。
千利休
千利休


 こうして生まれた利休の茶の湯精神は、息子や弟子たちに引き継がれます。
 江戸時代が始まると、乱世の精神性はなくなり、平和な茶の湯が求めらるようになります。だんだんと創意工夫よりも、定義化される傾向が強まり、江戸中期頃から「茶家」が生まれ、宗家、流派といった「茶の団体」が登場します。

 そう、茶道と流派という展開です。


4、茶道